チャールズ・ダーウィン ― 肉親
チャールズ・ダーウィン(1809-1882年)はイギリスのシュロップシャー州シュルーズベリーで生まれました。彼は父ロバート・ダーウィン(1766-1848年)と、母スザンナ・ウェッジウッド・ダーウィン(1765-1817年)の間に、6人兄弟の5番目の子供として生まれました。チャールズはその当時非常に著名な父方の祖父であるエラズマス・ダーウィン(1731-1802年)と母方の祖父であるジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年)の孫息子でした。祖父エラズマスはひたむきな進化論者であり、彼の有名な著作の中には「ズーノミア」(Zoonomia)や「有機的生命の法則」(1794-1796年:2巻に及ぶ)などが上げられます。下記は彼の死後に出版された詩「自然の寺」(1802年)の抜粋で、「生命は海に生まれ、次第に発達してきた」と書いています。
チャールズ・ダーウィン ― 教育
チャールズ・ダーウィンは1822年にシュルーズベリーの寄宿舎校へ入学しました。3年後、父の医業を助けるため親元を離れエジンバラ大学で医学を学ぶ。1827年に、19世紀前半の手術方の恐怖によってエジンバラ大学を脱落した彼は、英国国教会の牧師になるべく、キリスト教大学のケンブリッジ大学に入学しました。さらにチャールズは、1831年に神学の学士号を得ました。ケンブリッジ大学在学中には、植物学者および鉱物学者のジョン・スティーブンス・ヘンズロー(1796-1861年)の助けを受けました。その後、チャールズはヘンズロー教授から自然主義者を必要としていたビーグル号の船長ロバート・フィツロイ(1805-1865年)に紹介されました。1831年8月に、ダーウィンは自然主義者の船員としてビーグル号(HMS Beagle)の航海へ招待されました。後ほど、この5年間の船旅(1831-1836年)は彼の運命を変えることとなったのです。
チャールズ・ダーウィン ― HMSビーグル号の航海
チャールズ・ダーウィンの生涯の実績(種の起源と生存競争 ― 1859年出版)の土台となった経験は、ビーグル号(HMS Beagle)で航海中に行った研究のおかげでした。航海先の南米の海岸ではシャーガス病にかかってしまいました。1882年の死去までに腸と慢性疲労の病をわずらっています。チャールズは航海前に、ヘンズロー教授からチャールズ・ライエル(1797-1875年)の「地質学原理」(Principles of Geology : being an attempt to explain the former changes of the earth's surface, by reference to causes now in operation - 1830-1833)を勉強することを進められています。ヘンズロー教授は「事実のために必ずそれを読みなさい、ただし、野蛮な理論を決して信じなように。」と助言しています。1 この助言を受け、「地質学原理」の第一巻目を船出と共に持参し、第二巻は航海中に取り寄せています。このライエルの著作はダーウィンの考え方を大きく変えることとなったのです。まず、聖書の創世記へ対する疑いを持つようになりました(ライエルは聖書と対照的な考えをもっていました)。次に、すべての生命は時間をかけて進化したのだと確信をもつ基盤となったのです。したがって、国教会の神父として始めた彼のキャリアは、神学と対するものへ変わっていったのです。このようにライエル著作の「地質学原理」はダーウィンの人生の転機となったのです。
チャールズ・ダーウィン ― 種の起源と自然選択説(natural selection)
チャールズ・ダーウィンは1836年にイギリスに戻りました。1839年に、彼は、王立学会特別研究員に選出され、その5日後に彼のいとこエマ・ウェッジウッドと結婚しました(子供が10人生まれています)。1842年には「種の起源」を書き始めています。それにはライエルの「地質学の原理」および、トーマス・マルサスの「人口論」(1798年)が多大な影響を与えています。種の起源は最終的に、1859年に発行されました。
ダーウィンは進化論に基づく世界観を発明しませんでした。むしろ、彼がもたらしたのは新しい哲学の「自然選択」というしくみです。彼の著作「種の起源」では、自然選択説(natural selection)が生物の進化を説明することができると論じています(さらに、進化は突然異変だと定義しています)。しかしながら、現代では遺伝子突然変異の観点からさえも、自然選択説が不完全であることが認識されています。事実上、過去50年間の分子生物学、生化学、および遺伝学の進歩によって、ダーウィンの理論は「危機の理論」になりました。 " 2
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